旅行記 |
大陸横断鉄道とサンフランシスコ編(1996年8月22日〜31日)
ニューヨークからの汽車も残すところあと6時間位。ようやくサンフランシスコに着こうとしている。ニューヨーク・シカゴ間は、アムトラックのレイクショア・リミテッド号で車中1泊、シカゴ・サンフランシスコ間はカリフォルニア・ゼッファ号で車中3泊、合計4泊の汽車の旅になる。4日間ずっと風呂には入れない。これはコーチだけでなく寝台車に乗る人も同じだ。1人だけ臭がられる心配はない。
ニューヨークからシカゴまでは、アメリカ在住のフィリピン人のオジサンと同席した。すごく感じのいい人で、昔アメリカ軍兵士として日本に居たことがあると聞く。私の得意技の薔薇やカエルの折り紙は意外にうけなかった。
今朝はそんなお婆ちゃんと初めて食堂車で朝食を取った。同席したのは、サンフランシスコに住むアジア系のおばさんと、ワインの町ナパに住む、デンバーの大学に娘を送ってきたばかりのおばさん。この人はお婆さんと話している途中で突然涙ぐんでしまった。娘が親元を離れたのがつらいのだろう。どの国でもこれは一緒だ。この人もいい人で、息子に案内させるからナパのワイナリーを見学しなさい、と名刺までくれたのだ。結局サンフランシスコから少し遠いので行かなかったが、旅は道連れの意味を深く理解した4日間だった。 960831
今頃はシアトルに居るはずだったが、ボストン行きの飛行機が格安の150ドルだったことと、シアトルをまわると800ドル位もしてしまうとの理由から、今はボストンに居る。航空業界は良く分からん。 サンフランシスコには7日間居た。アムトラックが到着した翌日、サンフランシスコ空港で日本からアメリカ周遊に来たOとUの2人と会うはずだった。しかし私が空港にわずかに遅れたことと、飛行機が早く着いたことと、私自身の気が短いことなどが原因して会うことが出来なかった。実際飛行機は早く着いたものの、入国審査に手間取っていたらしく、私がもう少し待っていたら会えたはずだった。当初ユニオンスクエアのユースホステルに泊まる予定だったが、ここのユースはすごい人気で、朝8時にサインアップしなければ泊まれないらしく、私はその近くの安い宿に泊まっていた。私はその後ユースホステルに日本語で伝言を残したり、ホテルのフロントの人に事情を話したり、いくつかの考えられるホテルに電話で探したりした。次の日の夕方になって、伝言を読んだ2人がフロントの人に確認した後、いきなり私の部屋に来た。地球の表裏から知らない異国の地で待ち合わせることの難しさをこのとき思い知った。いや、単にお互い用意が悪かっただけかも知れない。
華厳の滝の10倍ぐらいの高さの滝がいくつもあった。いくつかの岩には「エル・キャピタン」「ハーフ・ドーム」など名前が付いていた。ロッククライミングで登り切るためには5日かかるそうだ。ナイアガラに続いてさらに人間が大きくなった。 サンフランシスコからヨセミテに向かうハイウェイから、幾つもの小高い丘の尾根に何百というとてつもない数の小型の風車が見える場所があった。風力発電なのだろうか。とにかくそれはすごい数で、何とも非現実的な光景だった。この風景はレナウンか何かのCMに使われたのではないか、と同行者は言っていたが真相はいかに。
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