2000.9.24 本澤なおゆき 他
ここでは、1999年11月ごろに、当サイトの掲示板 Music Cafe にてなされた、長調・短調に関する議論の様子を再録しています。
本澤: ところで、某宅美氏の関係する掲示板で、「長調は明るく、短調は暗く悲しいのはなぜ?」という議論が盛り上がっている様ですが、ここに来られる皆さんはどう思われるでしょうか。
友人のD: 長調、短調論によせて。倍音説や、スリコミ説にはナルホドと思いました。ただ、どこかで聞いた話ですけど、インドの高名なタブラ奏者が
初めてベートーヴェンの「運命」か何かを聞いた後で、「あれ、チューニングをしていたのかと思いました。」と述べたらしい。仮にこれを信じると、人によっては、短調暗い、等といった次元はおろか、ひょっとしたら、倍音といった西洋近代理論を越えた次元で音を聞いているということもありえるのではないか?なんて思うのですが。
でも音楽って純粋に音だけを楽しんでいるものじゃないですよね。復帰した華原トモミがいくら長調の曲うたっていても、暗く感じるしマライアキャリーなんか何うたったってハッピーになるし、篠原ともえなんか何うたっても頭バグルし。
本澤: そのインドの高名なタブラ奏者に似た話で、複雑な変拍子の民俗音楽で知られるバルカン半島の音楽家にベートーベンの交響曲9番を聴かせたら、「すばらしい、でもとても単純だ。」などと答えたというのがある。まさに、そういう人は西洋音楽的な聞き方はしていないでしょう。
音楽以外の要素の影響がとても強いという意見も賛成です。宗教音楽、オペラとかオペレッタ、そしてミュージカル・映画音楽など儀式、演劇や映像に付随する音楽では、心情の情景の描写に短調・長調・あらゆるスタイルの音楽を使う。
しかしどれも結局西洋音楽の伝統にのっとった感覚で作られているので、予備知識のない他の文化圏の人にいきなり聴かせても、結構わけが分からないんじゃないか。だから、そういう西洋音楽に対する感覚に支配されている以上、作る側の意図するように感じるのは西洋音楽に慣れ親しんでいる文化圏の人だけなのではないかと思います。そういう意味では、スリコミ説は正しいでしょう。
じゃあ、西洋人がなぜそういう感覚の音楽文化を持つようになったか、というと倍音説その他が考えられてくるんじゃないか。
侘美: 短調、長調論。すごく屁理屈な論をひとつ、思い付いたので披露させてください。
たとえば、松平頼暁の「Gradation」という曲。VlnとVlaとオッシレーターがユニゾンでDからAまでグリッサンドで10分半かかって上昇し、急激にDまで下降するというT-D-Tという構造をもっている。おそらく誰にもこうは聞こえないです。なぜ? 時間軸上に拡大しちゃうと機能が解体しちゃうんです。(山下邦彦・坂本龍一音楽史より)
で、スケールまたはモードの各音を10分間隔で鳴らしてみる。おそらくここでいう特定の感情は生まれにくいのでは?これはもちろん時間軸上に拡大しちゃったのですね。もっと言うとスケールまたはモード自体には時間軸は関与しない。音楽の時間外構造のひとつだから。だからもっと言っちゃうと、時間軸上に展開した時点でもうすでにスケールそのものではなくそれに基づいた「音楽」になっているのね。だから音楽自体には特定の感情が感じられても、音階それ自体にすでにそのような性質はないのでしょう。五線紙に書かれた、正確なハ長調のスケールからは音は聞こえないのだから。。。
本澤: うん、それ読んだことある。でも、極端な話は置いておくとして、人間には認識のスピードがあるから、数秒程度の音の並び(フレーズ)はある程度まとまって聞こえる。まとまって聞こえたものの印象は、それがどんなスケールにのっていたかに大きく左右されるでしょう。そういう意味で、スケールまたはモードは、音楽の印象に大きく関与しているといえると思う。
短調・長調以外のモードって、簡単に言葉で表現できずに、ただ「不思議な感じ」とか表現してしまう。これは、世の中にいかに調性音楽が溢れているかを物語っているのではないか。先日のライブで侘美先生のフリジアン・モードの「クリスタル・ゲイジング」を聴いたとき、そう思いました。モードや現代曲に対する一般的で常識的な感情というものが、文化的に出来上がっていないせいでしょう。