旅行記
危険な街ブタペスト
天国ウイーン
世界で最も美しい街ザルツブルク
ハイデルベルク城での結婚式

 旅行記 by Naoyuki Honzawa

危険な街ブタペスト(1998年4月7日〜9日)


ハンガリー国立歌劇場前で

旅行2日目にして、ブダペストでスリの洗礼を受ける


980407 Tues.

 新宿から成田エクスプレスに初めて乗る。快適で車内が広く、もうまるで日本ではないようだ。埼京線の線路を下り、品川から総武快速線に入るのがおもしろい。第2ターミナルで正露丸を一瓶買い、10:05発のルフトハンザ航空の乗る。JALやANAと違って、空港の片隅に追いやられているルフトハンザ機まで、あいにくの雨の中バスでずいぶん移動しなければならなかった。

 中国の上空では、山岳地帯を通った。いまにも万里の長城が見えてきそうな雰囲気だが、実際は見えなかった。シベリア上空からの眺めは、寒々とした雪と氷河の世界だった。機内ではコメディ映画「Mr.ビーン」を見た。爆笑した。

 気が付いてみると、飛行機はフィンランド上空を飛んでいた。まるで流氷のような大きなまだら模様が広がっていたが、よく見ると白い部分は沼で、黒い部分は地面や森のようだった。そういう地形が延々と続く。フィンランドは実に変わった土地にあるなと感じた。

 フランクフルトに到着した。両替してDuty Free Shopを見て、何も買わずにブダペスト行きのゲートへ行く。もう周りには日本人は全くいない。ブダペスト行きのルフトハンザは、エコノミークラスなのにフカフカなシートだった。しかも一時間半のフライトにもかかわらず機内食付き。そうしているうちに、あっという間にブダペストに着いた。現地時間で17:55。入国審査も全く問題なし。ゲートを出てホテルをまわってくれる8人乗りのシャトルバス「ミニバス」にすぐに乗れて、ホテルに向かった。空港はブダペスト郊外にある。殺風景な地区を、でこぼこの道路を全く気にせず猛スピードでバスを走らせる運転手。尻を数え切れないほどジャンプさせながらスリルを味わった。黄色い汚い建物・東駅を左手に見てからすぐにホテル・シュタディオンに着いた。大きいけど味のない長方形のホテルだ。

 メトロの駅に行けば共通の交通チケットが手に入るとガイドブックに書いてあったので、行ってみたが、何もなかった。それでは70フォリントの地下鉄ほぼ一回分のチケット買おうと、自動券売機に100フォリント入れてみたが、チケットは出ずに1フォリント硬貨が出てきた。「コノヤロウ金返せ!」と思ってその1フォリントを再び入れると、今度は100フォリント硬貨が2枚出てきた。ん? ラッキー。要するに壊れていた。地下鉄はあきらめて、近くの食料品店でジュースとビールを買ってホテルに戻った。


980408 Mon.

 ホテルの朝食は素晴らしかった。スクランブルエッグ、ハム、チーズなどが食べ放題。朝から腹を満足させて、まずは東駅に向かった。

 大きな道路沿いを歩いている途中、急に歩道がなくなり怖い思いをしたが、東駅に着きウイーン行きのチケットをなんとか買った。地下鉄の駅の手前で、3日間共通チケットがやっと手に入り、ブダペストの中心部に行こうと地下鉄に乗った。実はそこでまず最初にスリの洗礼を受けることになったのだ。全く腹立たしいことであまり思い出したくないが、電車に乗ったときに6〜7人の若者に囲まれ、まるで満員電車のようにもみくちゃにされ、ドアが閉まる前に彼らは要領よく逃げていったのだ。どうしようもなかった。

 財布とわずかの現金とクレジットカードを取られた。たまたま直前にウイーン行きのチケットを買ったため現金がほとんどなかったのだ。しかし事態はいっそう深刻になる。カードを止めようとしたが、カード会社の連絡先を控えていなかった。3台目の電話機でようやく大使館につながり(2台目まで壊れていた)、質問してみると、銀行ならどこでも止められるとの返事があった。そこで銀行を3つほどあたり、かなり親身になって相談に応じてくれるところもあったが、結局連絡先が必要らしいのでどうにも出来なかった。連絡先を調べようと他のカード会社に電話してカード会社の連絡先を教えていただき、ついに摺られてから約2時間後、カードを止めてもらうことが出来た。しかしその2時間の間にかなりの額を不正使用されていたのだ。

 警察に届けるために日本のガイドブックに載っている住所に行ってみると、移転したらしく移転先の住所らしい文字列の書かれた紙が貼られていた。その住所をたよりに1.5kmほど歩いてみたがそこには全く警察はなく、アパートや店だけが並んでいた。2人は完全に途方に暮れて、まずはホテルに戻って落ち着いて調べようと、地下鉄の駅を目指している途中、男女の警官が歩いているのを見付け、すがる思いで、「Excuse me! Excuse me! 」と何度も叫ぶと、振り向いてくれたが英語が通じない。とそのとき、たまたま通りがかった天使のような若者がハンガリー語の通訳をしてくれたのだ。大変救われた気分になって、若者に礼を言い、結局2人の警官の後について警察署に行った。途中、歩行者用信号が赤なのに手で車を止めて悠々と道路を渡った2人を見て、この国の警察は権力が強いんだなあ、と驚いた。

 警察署はあまり堂々とした建物ではなかった。私達はベンチに座ってしばらく待たされた。物珍しそうに何人かの人が声を掛けてきた。「どうしたんだ?」とか言っているようだった。英語が少し通じる人と話して、「東駅でスリにあった」と言ったら納得していた。私達の遭ったことはたいして珍しいことではないようだった。署長室らしき部屋に入って、質問を受けることになった。しかし署長も英語を話さない。結局電話を用いて英語を話せる人に介在してもらい、調書を書いてもらった。調書は完全なハンガリー語。日本で果たして役に立つのだろうか。(後にこれをカード会社に提出し、約1ヶ月後に不正使用による損害として認められた。)丁寧にお礼を言って警察署を後にした。

 もう観光する気分ではなかったが、地下鉄の駅へ向かったら、国会議事堂が見えてきた。ずいぶん立派な建物である。中はまるで宮殿のようにさらに立派なのだそうだ。地下鉄に乗り、ドナウ川を渡ってブダ側にあるモスクワ広場で降りて、ウイーン門から城壁の中へと入った。城壁の中は、まるで中世のような閑散とした石畳で、高級住宅やヒルトンホテルなどがある。そう、このヒルトンに泊まっていれば、あんな目に遭わなかったのである。やっぱりホテルは選んで泊まった方がいい。少なくとも治安の悪い都市では。

音楽史博物館、そしてコダーイ博物館でバルトーク、コダーイを拝む


音楽史博物館にて バルトークが採譜した民謡

 音楽史博物館に入った。バルトークとコダーイがかつてハンガリー民謡を採譜して歩いたときの自筆譜がたくさん展示してあったのには感動した。私には、5年くらい前にテレビ神奈川のある音楽番組で、2人が録音したとみられるハンガリー民謡を聴いて感動した思い出があるのだ。そう、それはコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」の「歌」に使われたメロディだったのである。それ以来「歌」を聴くたびに、あの現地のおばさんの声を思い出さずにはいられない。ハンガリー民謡集の楽譜が売られていたが、気安く手に入れるほどの量ではなかった。いかに現在までハンガリー民謡に対する研究が多く行われてきたかを思い知らされた。この点日本ではどうか。芸術性がないと言われても、民謡ほど人の耳に残るメロディーはない。

 「漁夫の砦」は城壁に似合わない近代的なヒルトンのすぐ近くにあり、ドナウ川をはじめブダペスト全体を見渡すことができる美しい場所である。そこにテーブルが並んでいて、コーヒーかビールを飲もうと思ったが、誰も座っていないし高そうだしこわいし、やめた。そのかわり、近くのガラス張りのカフェに入り、ビールを飲んで一息ついた。ドナウ川とは反対側の城壁をつたって歩き、再びウイーン門からモスクワ広場で地下鉄に乗り、東駅前後では極度に緊張したものの、無事にネプシュタディオン駅に着き、部屋に戻った。

 ひたすら眠った。


980409 Tues.

 昨日の精神的疲労と時差ボケがあったので、遅い朝食となった。朝食のバイキングも1人が必ず荷物番になって、必要以上に警戒していた。でも朝食はおいしい。ただ、コーヒーは非常に濃くて、冷たかった。エスプレッソみたいなもので、温かい牛乳を注いで、カフェオレにするのが正しい飲み方なのだろう。西側では経験のないその飲み方が新鮮に思えた。ヨーグルトも大きくて立派だった。ブルガリアが近いからだろうか。(?)近くにはスタジアムがあって、運動部らしい子供達の団体が大勢泊まっているのだが、その子供達はヨーグルトをぐるぐる混ぜてから食べていた。それが正しい食べ方なのだろう。きっと。

 そとは雨だった。もう地下鉄には乗るまいと、別の道を走る市電(トラム)に乗ってみた。雨の中、大変広い市民公園を街の中心部に向かって歩き始めた。きれいな公園だが、誰も歩いていない。右手にセーチェニ温泉の建物が見えた。ブダペストに来たら温泉、と心に決めてきたのだが、昨日の件もあり全く入る気にはなれない。さらに歩くと、左手に大きな門があり、池の向こうにヴァイダフニャド城があった。入ろうと思ったがやめた。門の下で雨宿りしようと思ったが、お土産店がうるさそうなのでやめた。


英雄広場にて たまたまブラスバンドが演奏していた

 英雄広場に出た。右手に国立美術館、左手に絵画館があり、両方とも似ている建物だ。そして真ん中には建国千年記念碑がある。1896年で建国千年だったそうだ。雨にも拘わらず、広場では地元のマーチングバンドが演奏していた。何かあるのだろうか。とりあえず写真に納めて、美術館でひと休みすることにした。美術館のことは、申し訳ないが、カフェでコーヒーを飲み細長くて平べったいピザみたいなおいしいパンを食べて、ミュージアムショップでハンガリー語の書いたポスターを探した以外はあまり覚えていない。 

 美術館を出て、美しいアンドラーシ通りをひたすら歩いた。コダーイ博物館を探したが、なかなか見付からない。目立たない普通のアパートの1階の一部屋にそれはあった。すこし暗くてアンティークなコダーイの書斎を見て、「孔雀」や、「ハーリ・ヤーノシュ」の自筆譜に感動した。美術館の出口には来館ノートが。見ると結構日本人のメッセージが目立つ。みんな音楽好きらしく、コダーイの自筆譜などに感動しているようだ。世界中からコダーイ・ファンが静かにここを訪れていることを思うと、うれしくなる。

 有名なリスト音楽院を見る。別館の練習場らしい建物の2階の一室が「リスト・フェレンツ記念博物館」である。当時のままの家具やピアノなどが狭い部屋にいくつか展示してあった。ハンガリー語で書かれた案内の小冊子を買う。英語もある、と言われたが、現地の言葉の本を何か欲しかったのだ。

 オクタゴンという広場に見慣れたウェンディーズの看板が目に入ったので、そこでひと休みをした。店内は結構広く、ハンバーガーなどを食べて落ち着こうとしたが、ハンバーガーセットの載ったトレーを持った怪しい老人が、目の前を何度も何度も徘徊しているので、全然落ち着いて食べられなかった。惚けているのか席を見付けることができないようで、かえって可哀想であった。

 ハンガリー国立歌劇場の前で写真を撮る(トップの写真)。近くにスーパーがあったので入ってみる。これが思いのほか楽しくて、現地の生活事情が見えてくると、旅行者とは違った目でこの国を見ることができそうな気がして、親しみが少し湧いてくると言ったらいいだろうか。同行者は、初めて旅行している気分になった、と言っていた。ちょっとした安らぎであった。

 ふたたびオクタゴンに戻り、トラムでドナウ河方面へ向かった。地下鉄と違ってトラムなら明るくて安心である。車窓からは活気ある街の中心部が見えた。ここであらためてホテル選びに誤りがあったことを実感した。トラムを乗り換えてドナウ河沿いを下り、くさり橋付近で降りた。トラムの乗り換えでは、トンネル部分に子供の物乞いがいて雰囲気悪かった。地下というのは本当に避けるべきなのだ。くさり橋を渡る途中、アメリカ人かイギリス人の観光客のカップルとすれ違い、写真を撮り合った。同じような境遇の人と会い、安心した。それまでこのようなロンドンやパリとかで多く見るタイプの観光客にあったことがなかったからだ。

 対岸には、ロータリーに大きな花壇がありと、見上げると立派な王宮があった。ケーブルカーで行けるらしい。私達は時間も遅かったので、帰るために地下鉄の駅までトラムに乗った。しかし、トラムの降り場から地下鉄の駅までが非常に雰囲気の悪い地下道だった。この世の終わりかと思いながら、2人は地下鉄のホームへのエスカレータまで、マジで逃げ込むように走った。今にも襲いかかってきそうな汚い服装の若者達に囲まれて、走り通った。この日は太いズボンにタートルネックのシャツをズボンから出して、大変ラフな格好にしていた。いかにも観光客っぽい格好では必ず襲われる。これも昨日学んだことだ。

 地下鉄に乗るときも計画を立てた。まずホームでは壁にへばりついて睨みを利かして、後ろから絶対に襲われないようにした。同時に怪しい人チェックも。怪しい人はいなかったが、ドアが開き、入るときに狙われた経験を思いだし、乗らないそぶりを見せてから、ドアが閉まる直前に入るようにした。車内では始めはしばらく立っていた。その後椅子に座ることができて、少し安心したが、「魔の東駅」を通るとき私達の緊張は極限に達した。しかし無事何事もなくホテルの前の駅に着き、ホテルへ逃げ込んだ。


ホテルのピアニストと筆者

 さて、気分を変えて夕食はというと、ホテルのレストランで済ませた。有名なハンガリーの郷土料理「グヤーシュ・スープ」やハンガリー風ステーキなど。うどんの出来損ないのような細いパスタが付いていた。ハンガリー・ビールも旨かった。食事も進み、いい気分に浸っていると、隣の食堂でキャピキャピした運動部系の少年少女が食事をしていて、ピアノとシンセの伴奏付きのジャズが流れていた。不思議だがどうも生演奏風なので、すごく気になって、食事の後覗いてみると、初老のオジサンが小さなシーケンサーをつないだピアノで、いろんなスタンダードを弾いていた。そのオジサンは演奏の合間にいろいろと話をしてくれて、楽しかった。英語よりもドイツ語の方がすぐに出てくるようだった。ブダペストで活動しているピアニストだった。明日ブダペストを離れるんだ、と言ったら残念そうにしていた。いい人だった。

 ハンガリー人の数学者ピーター・フランクルは、「旅先ですり寄ってくる人は悪い人である確率が半分以上で、こちらから声を掛ける人は95%以上が良い人である」と言っていたが、大変おもしろい言い方で、全く同感である。この危険だと思われるブダペストでも、警察署へ行く時に通訳をしてくれた若者や、いろいろと話をしてくれたホテルのピアニストなど、いい人が沢山いるのである。このようなこの国の良いところは、決して忘れないようにしたいと思う。

天国ウイーン

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