コラム


ニホンゴって...
「日本語」(金田一春彦著)を読んで

1999.10.28

 小さい頃から理科系である私は、国語を学ぶことが大嫌いであった。大学時代の英語・ドイツ語の成績もヒサンなものだった記憶がある。しかしアメリカで英語を使って音楽を勉強し、イタリア語・ドイツ語・フランス語などの楽語を読むことが多くなるにつれ、だんだん「日本語って変わった言語なんだな」と思うようになった。いったい日本語ってどんな起源を持ち、どんな風に変わっているんだろう、という私の疑問にすんなりと答えてくれたのがこの本である。一見言語学の学術書のようなおカタイ題名であるが、内容は極めて平易であり、明快で人間味あふれる文体で綴られている。

 先日旅行でハンガリーを訪れた。フランス・イタリア・ドイツなど他のヨーロッパ諸国では、駅の案内表示などはだいたい類推によって意味が分かる。しかしハンガリーでは、今まで見たことのないような文字の羅列ばかりであり、全く類推が利かない。ヨーロッパにありながらハンガリーやフィンランドはウラル語族に属し、トルコ語やモンゴル語などのアルタイ語族と同系統であるらしく、不思議である。日本語の起源はというと、現存の言語で一番日本語に近いとされる朝鮮語を通してアルタイ諸語と結びつくそうである。しかし発音の点ではポリネシア系の言語と似ているので、ポリネシア系の民族が元来日本にいたのではないかという説が有力らしく、想像力を掻き立たたせる。それでも現在の日本語は同族の言語を持たず、ピレネー山岳地方のバスク語や北海道・旧カラフトのアイヌ語などと並ぶ、孤立した言語のひとつなのだそうだ。

 さて、とかく日本人は海外旅行中に醜態をさらしやすいが、それには理由がある。「うちの会社では」「うちの取引先」「お宅では」と、日本人は会社にまで「家」意識を持ち、内と外をはっきりと区別する。そして、「世間に出て笑われる」の「世間」のように「家」に対立する概念がある。日本人の生活は一番内側に身内の世界があって、これは遠慮がいらない。その次にはいろいろ窮屈な心遣いをすべき世界があり、それが世間だ。そうして、外側にはまたまったく遠慮のいらない他人の世界があると考えて来たのだそうだ。(土居健郎『甘えの構造』)日本人が公徳心に乏しい、国立公園のようなところへ空き缶を捨てる、などとよく言われて来たのは、こういう考え方によるもので、改めて考えてみると思い当たるフシはいくらでもある。納得させられた。

 この本にはこのように数多くの興味深い話があり、私の好奇心を満たしてくれた。そして、読んでいるうちにだんだん自分が日本人であることを嬉しく思えてくる本でもある。


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