Column
 コラム

「どっち道」 作曲/山田盗筰

2000.3.16 侘美秀俊

 昨今、ワイドショーをも賑わす勢いの「トウサク騒動」なんですが、そもそも「どういう同一性の定義でもって=トウサク」となるのか。これは十分検討してみる価値がありそうです。でないと、某ベテラン作曲家みたいなコトになりかねませんもの。まず、「曲」が「曲」である所以はその「曲」にも因りますが(?)まあ、まとめておくと一般的に次のような諸要素の密接な関わりからできていえるといえるかもしれませんね。
「メロデー」「和音」「リズム」「伴奏形態」
「フレーズの構成、全体の構成」「楽器編成」
まぁ、ポピュラリティーを尊重して作られた楽曲はおおまかにこのような下部構造から成っていると分析できそうですが。

 話題の「演歌」業界ですが、この分野もおそらく立派な消費社会の一部であり、少なくとも商用分野であることに違いはなさそうですが、この分野を成立させている大きなポイントはおそらく「マンネリズムの極地」と私はつねづね考えておる訳です。いわゆる「ポジティブな意味での類似性が大衆化されている。」という極めて保守的な性質の背景を持ったものなんでしょうねえ。

 今。演歌という「カテゴライズ」をしましたが、この「ジャンル」という分類の基準を楽曲の範疇に限っていうと、楽曲の下部構造を「規範とか制度化されたセオリー」を基準として類似性を分類したものとおおまかには定義できそうですが。制度化されたセオリーとはいわゆる、高度に抽象化されたもので「文法」とか「法律」とかにあたるもので、音楽で言うと、「和声法」とか「リズム構造論」とかにあたるものではないでしょうか、え〜い、もっとくだけて言うと「ボサのリズムをつかってる」とか「ブルースの進行だ」とか「オーケストラの曲だ」とか。であるからして、その類似性を基本としたカテゴリーに属する曲は「その類似性自体がその曲のキャラクターにもなっている」と言えませんか?

 ということは、演歌を例に出すと「演歌」を「演歌にしてる所以は?」
ぶっちゃけて言うと、大部分が「ヨナ抜き」「演歌特有の節回し」「定番コード進行」などの下部構造をもっている曲ということになりませんかね。そうすると「作家」様はこの「演歌」というマンネリズムを楽しむ大衆に受けいられるようにこのような「キャラクター=類似性」を微妙なバランスでうま〜く、作品の中に盛り込むのです。しかしこのように「演歌」はものすごくクセの強い条件を満たす作品を作らなければいけない訳ですなこれが。ですから、『似ないほうがおかしいんですわ。』

 さらにさらに細かな「メロデー」という範疇にまでこの類似性が及ぶと「トクチョー」が「トウサク」になるように「この曲とこの曲は同一性が認められます。」なんていう第三者の分析が及ぶ結果になるのでが、この辺が極めてグレーですよね。

 まあ、というわけで演歌のミリオンのほうは事情がよ〜く分かってらっしゃる人たちが多いみたいで大きな問題にはならなかったみたいで良かったです。

 あるいはいちばん「ポイント」なのは作品自体に認められるものよりは
「故意」か「偶然」かという作家立場に近い部分での精神性の部分なんでしょうかね。で、今、業界でわいわいやっている方たちは「多く大衆に触れる機会を持っている作家さんたち」であって数多くの作曲家たちは「トウサク」なんていうことでガヤガヤしたりしないし、できないし、意味ないし。っていう人もた〜くさんいらっしゃると思うんです。

 この複雑化した問題はどうなるのでしょうか。

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